『Land of the golden witch』
突然の強風だった。一瞬、体が宙に浮いた気さえした。私はとっさに目をつぶり、風に背を向けた。そして再び目を開けた時、目の前にはベアトが立っていた。
「……久しぶりよ。元気であったか、真里亞?」
「ベアトリーチェー!!」
やっときてくれた! 私はベアトリーチェに飛びついた。
「待ち合わせは東屋で、と言っておいたはずであるぞ。このようなところで何をしている?」
「ごめんなさい、ベアト。あのね、真里亞の薔薇がね、なくなっちゃったの」
「そなたの薔薇とな?」
私は元気がなくなっていた薔薇のことをベアトに説明した。
「さようであるか。ならば真里亞、そなたは妾に何を望む?」
「ベアトの魔法で真里亞の薔薇を元に戻して!」
「ふむ、それは容易きことなり。だが真里亞、そなたも魔女見習い。妾が手を貸すゆえ、自らそれを成し遂げてみよ」
「わかった。やってみる!」
「さて、そなたの求める元の姿とはどのようなものか? 飴の包み紙がついた萎れた姿か? それとも、それより更に前の、美しく咲き誇っていた姿か?」
「うー、きれいな方!」
「ならば、時間を巻き戻すよりも、種よりやり直した方が早そうであるな」
ベアトは右手を広げて高く上げると、目を瞑って呪文を唱えた。そして握った右手を私の前に差し出した。
「妾の魔法でそなたの薔薇を種に戻したぞ。これにそなたの魔力を注ぎ、見事、美しく咲き誇っていた姿まで成長させるだ。では真里亞、目を瞑り、呪文を唱えよ。妾がそなたの魔力を薔薇の種に伝えようぞ」
私は目を瞑り、いつもベアトがやるように呪文を唱えた。
「さぁさ、目を閉じて御覧なさい。そして思い出して御覧なさい。あなたがどんな姿をしていたのか。それはきっと、とてもとても美しい姿。どうか私に、あの姿をもう一度見せておくれ…」
「うむ、そなたの魔力の波動が種に伝わりだした。おっと、目を開けるでないぞ。そなたのか細き魔力では、目を開けたとたん、集めた魔力が霧散してしまうからな。よし、芽が出始めた。さっきの場所は狭くて窮屈であろうから、こちらに植えてやろう」
目を閉じているから良く解らなかったけど、ベアトの声の聞こえる場所が少し変わったように感じた。私は何度もくりかえし呪文を唱えた。
「よし、真里亞。目を開けてよいぞ」
ベアトの声に目を開けると、ベアトはさっきとは反対側にいた。そして、ベアトの足元には金色に輝く糸が蝶結びされた薔薇が一本あった。
「他の薔薇と同じでは見分けがつかぬゆえ、目印をつけて置いたぞ。よくやったな、真里亞」
「やった、やった、私の薔薇だ。うーうーうー!」
飛び上がって喜ぶ私の頭をベアトは優しく撫でてくれた。私はベアトと別れた後、すぐにゲストハウスに行って、譲治お兄ちゃん達を薔薇庭園に連れて行き、私が蘇らせた薔薇を見せた。みんな「凄いね」って褒めてくれたよ。
私はベッドに足を投げ出して、ますます強くなってきた台風の音に耳を傾けながらぼんやりしていた。こんなに凄い風と雨だと、せっかく元気にしたのに、真里亞の薔薇がまた、駄目になっちゃうかもしれない。とっても心配。そんなことを考えていると、譲治お兄ちゃんが話しかけてきたよ。
「真里亞ちゃん、砂浜でのかけっこは堪えたかい?」
「うー、そんなことない、真里亞は平気。それにしても、譲治お兄ちゃんは足が速い。戦人も朱志香お姉ちゃんも全然敵わなかった。もう若くないのにすごい、すごい」
「はははっ、若くないは酷いな。まだ僕は23歳だよ。とは言っても、だんだん十代の頃のような無理は出来なくなりつつある気もするけど。僕はね、健康維持のために毎朝ジョギングしてるんだよ。企業の経営者が健康不安を抱えているようでは、顧客からも部下からも信頼されないからね。戦国武将の武田信玄だって…」
譲治お兄ちゃんは私を子ども扱いしないで真面目にお話してくれるけど、話が少し難しい時がある。譲治お兄ちゃんには内緒だけど、そういう時は適当に聞き流すようにしている。しばらくすると、紗音がティーカップを積んだ配膳ワゴンを押してやって来た。紅茶とお菓子を持ってきてくれたのだ、わーい。おなかぺこぺこだったんだ!
「きゃあ!」
紗音が悲鳴を上げた。思わず目をやると、さっきまで横にいたはずの譲治お兄ちゃんが、転びかけた紗音を抱きとめていた。素早い!
「紗音は相変わらずうまいなー」
とたんに朱志香お姉ちゃんが、抱き合う形になった2人を囃し立てる。朱志香お姉ちゃん曰く“紗音はしっかりしているようで、不器用だったり、ドジなところがある。それがオトコゴコロをくすぐるに違いない”のだそうだ。でも、私にはよくわからない。
「しゃ、紗音が転びかけたのは、今日だけでもう3度目だね。どうかしたのかい、もしかして体調が優れないとか?」
真っ赤になった譲治お兄ちゃんは誤魔化すように紗音を気遣ったよ。
「い、いえ、そういうわけではございません。実は今、着ている制服は先日卸したばかりなのですが、以前のものより生地の遊びが多いみたいなんです。見掛けはほとんど変わらないんですけど。ですから、以前の感覚で振舞うと、引っ掛かってしまうんです……」
同じく真っ赤になった紗音は、ペコペコ頭を下げながらあわてて事情を説明した。私もたまに頭のクラウンのことを忘れてしまって、ぶつけてしまうことがあるから、それはわかる気がするね。
「それにしても譲治の兄貴はスゲーぜ! 俺だってもう少し足が速ければ、紗音ちゃんのお胸を堪能できたってのによ」
戦人も悲鳴を聞きつけて駆け寄ろうとしたみたいで、頭を掻いていた。その言葉に、元々真っ赤だった紗音の顔が更に赤くなった。
「そりゃそうさ。譲治兄さんと紗音は以心伝心、側にいるだけで互いのことが何でもわかっちまうんだぜ」
「なんだよそりゃ!? 穏やかじゃねえな。ウブな俺にもわかるようにじっくりねっとり説明してもらおうじゃねえか!」
私にはよくわからない話だったけど、朱志香お姉ちゃんと戦人に散々にからかわれ、譲治お兄ちゃんと紗音の顔が蒼くなったり赤くなったりするのを見るのは楽しかった。そうして楽しい時間を過ごしていると、やがて源次さんがやって来た。
「お子様方、夕食の準備が整いました。食堂にお集まりくださいませ」
やった、ようやく待ちに待った夕食だ。これでベアトとの約束を果たせる。
夕食が終わったところで、私はベアトから預かったお手紙を取り出して読み上げた。難しい漢字が多かったし、緊張もしたけど、何とかうまく読むことが出来たよ。
“六軒島へようこそ、右代宮家の皆様方。私は、金蔵さまにお仕えしております、当家顧問錬金術師のベアトリーチェと申します。長年に亘りご契約に従いお仕えしてまいりましたが、本日、金蔵さまより、その契約の終了を宣告されました。よって、本日を持ちまして、当家顧問錬金術師のお役目を終了させていただきますことを、どうかご了承くださいませ。さて、ここで皆様に契約の一部をご説明しなければなりません。私、ベアトリーチェは金蔵さまにある条件と共に莫大な黄金の貸与をいたしました。その条件とは、契約終了時に黄金の全てを返還すること。そして利息として、右代宮家の全てを頂戴できるというものです。これだけをお聞きならば、皆様は金蔵さまのことを何と無慈悲なのかとお嘆きにもなられるでしょう。しかし金蔵さまは、皆様に富と名誉を残す機会を設けるため、特別な条項を追加されました。その条項が満たされた時に限り、私は黄金と利子を回収する権利を永遠に失います。
<特別条項>
契約終了時に、ベアトリーチェは黄金と利子を回収する権利を持つ。ただし、隠された契約の黄金を暴いた者が現れた時、ベアトリーチェはこの権利を全て永遠に放棄しなければならない。利子の回収はこれより行いますが、もし皆様の内の誰か一人でも特別条項を満たせたなら、すでに回収した分も含めて全てお返しいたします。なお、回収の手始めとしてすでに、右代宮本家の家督を受け継いだことを示す”右代宮家当主の指輪”をお預かりさせていただきました。封印の蝋燭にてそれを、どうかご確認くださいませ。黄金の隠し場所については、すでに金蔵さまが私の肖像画の下に碑文にて公示されております。条件は碑文を読むことができる者すべてに公平に。黄金を暴けたなら、私は全てをお返しするでしょう。それではどうか今宵を、金蔵さまとの知恵比べにて存分にお楽しみくださいませ。今宵が知的かつ優雅な夜になるよう、心よりお祈りいたしております。
――黄金のベアトリーチェ”
それからは散々だったね。皆、私がベアトのお手紙を上手に読めたことを褒めてくれるどころか、凄い目で私を睨み付け、誰から手紙を貰ったのか、散々に問い詰めてきた。何度、ベアトから貰ったとくり返しても、誰も信じてくれない。そしてとうとう、伯父さんや伯母さんたちは大きな声で怒鳴り合いを始めてしまったの。ママもその中の一人だった。私が思わず泣いてしまったら、譲治お兄ちゃん達は私を慰め、ゲストハウスまで連れ帰ってくれた。それからは夜遅くまで、譲治お兄ちゃんと朱志香お姉ちゃんと戦人と紗音と私とで、トランプをして遊んだよ。私は譲治お兄ちゃんとチームを組んだ。すると連戦連勝、負けなしだった。譲治お兄ちゃんはスポーツも勉強も出来て、ゲームも強い。その上、優しい。譲治お兄ちゃんが私の同級生だったら良かったのに…。
翌朝、戦人が目を覚ますと、一緒の部屋で寝ていたはずの譲治お兄ちゃん、朱志香お姉ちゃん、そして私、誰一人いなくなっていたよ。譲治お兄ちゃんが寝ていた布団に手を入れてみると、冷たくなっていて、随分前に起きたみたいだった。壁に掛けてある時計を見ると、9時を過ぎていた。
「やれやれ、あれだけ遅くまで遊んでたってのに、みんな早起きだな。それにしても、俺も一緒に起こしてくれても良いのによ。親切なんだか、冷たいんだか…。大体、この時間ならとっくに朝飯じゃねーのか?」
戦人がブツブツ言いながら着替えて部屋を出ると、源次さんが彫像のように扉の脇に控えていた。
「おわっ、何かと思えば源次さんかよ! 一瞬、マネキンでも置いてあるのかと思ったぜ」
「おはようございます、戦人様。大切なお話がございますので、落ち着いてお聞きくださいませ」
驚愕の表情を浮かべる戦人とは対照的に、能面のように無表情な源次さんが淡々と伝えたのは、更に戦人を驚愕させる内容だった。こんな時でも落ち着いている源次さんは凄い。
「どうなってんだよ、親父!」
息をきらせて貴賓室に駆けつけた戦人を、待ち構えていたかのように蔵臼伯父さんと留弗夫伯父さんが押しとどめたよ。
「やめろ、戦人! 中を見るんじゃねえ」
「そうだとも。あれは子どもが見て良いものではない」
戦人は死に物狂いで2人を押しのけようとしたけど、2人とも戦人と同じくらいの体格がある上、留弗夫伯父さんはボクシングの経験者だからね。大柄な戦人でもそんな2人にはとても敵わないよ。でも、2人の体の隙間から僅かに部屋の様子が見えた瞬間、戦人は崩れるようにその場に膝をついた。しばらく待って、戦人が落ち着いたのを確認してから、2人は中に踏み込まないという約束で戸口から室内を覗かせた。室内は血の海だった。絨毯に赤い模様が描かれているのかと思えるくらいだね。戸口から5メートルほど先に、頭を戸口に向けて横たわる譲治お兄ちゃんの体が、そしてその周りに朱志香お姉ちゃん、私、紗音、ママの体がそれぞれ横たわっていた。そして少し離れたところにもう1人、ソファの陰に隠れてよく見えなかったけど、誰かが横たわっているみたいだった。中には夏妃伯母さん、秀吉伯父さん、絵羽伯母さん、霧江伯母さん、熊沢さん、郷田さん、南條先生がいて、隅っこの方で固まっていたよ。
「ソファの陰だし、毛布がかけてあるから良く見えねーが、あれが嘉音君で間違いねーんだな」
蔵臼伯父さんと左右に分かれて戸口に立っていた留弗夫伯父さんは、黙って頷いた。戦人はしばらく黙っていたが、突然、爆発した。
「何だってんだよ、これは! 何で譲治の兄貴がストッキングをはいて、女物の靴を履いてるんだよ! 神に誓ったって良い、譲治の兄貴はそんな変態じゃねえ! この俺が心から尊敬出来る、数少ないお人だ! 立派な紳士だ。脛毛を剃ってストッキングを履くなんて、絶対ありえねぇ!」
戦人の言う通りだった。譲治お兄ちゃんの体には毛布がかけられていたけど、その毛布から覗く足はストッキングを履いて女物の靴を履いていた。
「それだけじゃない。楼座叔母さんも、朱志香も、真里亞も、紗音ちゃんも、誰一人まともな姿じゃねぇ!」
毛布の大きさを考えれば、ママの腕は毛布の外に出ているはずなんだけど、出ていなかった。毛布から出ている朱志香お姉ちゃんの腕は、男物の使用人の制服だった。毛布から出ている紗音の腕は、ママが昨日着ていた服だった。私に至っては、毛布の下の、本来腕がある部分から男物のスラックスが生え、その先は靴になっていた。そして、どの毛布も大量の出血を窺わせる赤に染まっていたよ。
「戦人くん。君の後に落ちているそれは何だね?」
肩で息をする戦人の後ろを蔵臼伯父さんが指差した。するとそこにはいつの間にか、右代宮家の片翼の鷲が刻まれた封筒が置かれていた。夕食の後に私が読み上げた封筒と同じものだね。戦人以外は皆、部屋の中にいるのに不思議。
「おいおい、何だってんだよ。こんなのさっきまではなかったぜ」
戦人が怒りに任せて引きちぎるように封筒を開封すると、中から手紙が出てきた。
“ハァイ! タワシ、ベアビー、4649! タワシ、メリケンセイダカラ、ムチャテキトー。アームヲヒッコヌイテ、レッグニツナグコトダッテデキル。ツイデニタワシ“オンナノコ”ダカラ“チョーイチリューノマジシャン”ニ、クラスチェンジ。ニンゲンデモオナジコトヤッテミタ。レッグノファストナジョージニアコガレルマリアニハ、ジョージノレッグヲ。シャノンノバストトレッグバカリミテイルジョージニハ、シャノンノレッグヲ。ローザノキヨウサニアコガレルシャノンニハ、ローザノアームヲ。ジェシカノパワーニアコガレルカノンニハ、ジェシカノアームヲ、ワカサヲトリモドシタイローザニハ、マリアノアームヲ、ソレゾレソウチャク。コレデミンナハッピー、タワシモハッピー。デハ、バイナラ。シーユーネクストナイト。
グットチャイルドノカタミ“ベアビー”コト、ゴールデンウィッチ“ベアトリーチェ”ヨリ”
「どういうこったこりゃ? これは全部、黄金の魔女ベアトリーチェ様の仕業だってのかよ、ふざけんな!」
戦人は手紙を破り捨ててしまったよ。せっかくのベアトからのお手紙なのに。現場保存の為、貴賓室には鍵をかけて、みんなで客間に移動することになった。その際、使用人室に控えていた源次さんも合流した。これで書斎のお祖父ちゃん以外はみんな、客間に揃ったことになるね。もちろん、貴賓室の6人は除くよ。
皆が青褪めた顔で押し黙る中、はじめに発言したのは蔵臼伯父さんだった。
「まず、状況を整理しようではないか。第一発見者は熊沢と源次だったな」
「は、はい。さようでございますとも。朝食の準備を嘉音さんが手伝うはずだったのに、いつまで経っても起きてこないと郷田さんから内線で連絡があり、源次さんと手分けして探すことになりました。その時に貴賓室の扉に赤い血のような塗料で落書きがされていることに気がつきました。マスターキーを持っておりましたので扉を開けましたが、ドアチェーンが掛けられており、中には入れませんでした」
「そこで熊沢が私に報告し、旦那様と奥様にお声かけを致しました次第です」
震える声で事情を説明する熊沢さんの言葉を源次さんが引き継いだよ。
「うむ。そこで私は番線カッターでチェーンを切断するように指示し、私と夏妃と源次と熊沢で室内に入った」
「そこで、室内の状況に驚き、私にお声がかかったわけですな」
今度は南條先生が発言する。
「室内はとんでもない有様でしたな。私も長いこと医者をやっておりますが、あんな大量の血を見たのは初めてです。六人の遺体は検死するまでもなく、死亡しているのが明らかな状態でした。これは説明するまでもありませんな」
夏妃伯母さんはその言葉に室内の惨状を思い出したらしく、ハンカチで口元を押さえた。蔵臼伯父さんはその肩を抱くように夏妃伯母さんに寄り添ったよ。蔵臼伯父さんは夏妃伯母さんをとっても大切にしてるのに、朱志香お姉ちゃんにはそれが解らないみたい。毎日一緒に暮らしているのに不思議だね。
「それで、惨たらしい遺体に毛布をかけて、我々にもお呼びがかかったっちゅうわけやな」
「はい、どこに犯人が潜んでいるやも知れず、皆様の安全確保を優先いたしました。その後、私はゲストハウスで戦人様のお目覚めをお待ちしておりました」
秀吉伯父さんの言葉に源次さんが答えた。
「あらぁ、源次さん、流石は使用人頭ね。1人でいるときに犯人に襲われるとは思わなかったのかしらぁ」
「いささか心得がありますゆえ…場合によっては犯人と刺し違えてでも戦人様をお守りする覚悟でした」
絵羽伯母さんの皮肉にも源次さんは眉1つ動かさず、淡々と答えた。流石はプロだね。
「それにしても、こんな時でもお部屋からお出にならないなんて、お館様は大丈夫なのでしょうか? 私めは心配で心配で…」
「当主様はご無事でした。黒魔術の儀式に専念したいということで、話は聞いていただけませんでしたが…」
郷田さんの心配を夏妃伯母さんはぴしゃりとはねのけた。郷田さんって、いつも間が悪いよね。
「そうして、現在に至ると言うわけね。ところで、この屋敷の鍵の管理はどうなっているのかしら。そもそもチェーンロックって室内からしか掛けられないんじゃなかったっけ?」
霧江伯母さんからは事件のショックがまるで感じられなかった。でもきっと、こういうときだからこそ、しっかりしようと思ってるんじゃないかな。
「うむ。それについては私が説明しよう。この屋敷には部屋個別の鍵がそれぞれ1つ、そしてマスターキーが5本ある。現在、それらは全て集められ、夏妃が管理している。親父殿の書斎の鍵は2本あるが、1本は中にいる親父殿が持っているため、問題なかろう」
蔵臼伯父さんが夏妃伯母さんを振り返ると、夏妃伯母さんは脇に抱えた箱を皆に示したよ。
「チェーンロックについては霧江さんが言うとおり、外部からの施錠も開錠も不可能だ。そして、当時、貴賓室の部屋の窓は内部から施錠されており、こちらも外部からは施錠も開錠も不可能だ」
「おいおい、兄貴。それじゃあ、あの部屋は外部からは如何なる方法を持っても施錠も開錠も出来ない密室だったってのかよ?」
冷や汗を懐から取り出したハンカチで拭いながら留弗夫伯父さんは尋ねた。
「ああ、そういうことになるね。仮に犯人が我々が与り知らない合鍵を作っていたとしても、あの密室は構築不可能だ」
蔵臼伯父さんは一見、平然としているように見えたが、その膝はかすかに震えていた。蔵臼伯父さんのこういうところって、私は好き。なんだか可愛いよね。
「ちゅーことは我々は今、どんな施錠も通じんような殺人鬼と同じ島にいるってことかいな!? 蔵臼義兄さん、何とかならんのか? そもそも警察には連絡したんやろうな」
「源次に確認させましたが、内線は使えるものの、外線は切断されているようです。主人のモーターボートは今、修理に出していて島にはありません。もっとも、あったとしてもこの嵐ではとても使い物にはなりません。ですから、最低でも明日の朝までは外部との接触は不可能です。私はこれから当主様に掛け合って、皆を書斎に入れてもらえるように説得してきます。あの部屋なら鍵は常に当主様か源次が持っていますから、合鍵の心配はありませんし、オートロックですので安全かもしれません」
「待ちたまえ、私も一緒に行こう。あと、源次もついてきてくれるかね。皆はしばらくここで待っていてくれたまえ」
蔵臼伯父さんは夏妃伯母さんと源次さんを連れて、食堂を出て行ったが、しばらくすると、夏妃伯母さんと共に肩を落として戻ってきたよ。
「今、源次が残って親父殿を説得してくれている。しばらく時間が掛かりそうだから食事でもして待っていよう」
蔵臼伯父さんの言葉で、みんな初めて、まだ朝食を食べていなかったことに気がついたみたい。いろんなことがあったからね。朝食の準備のために、朝早くから準備をしていた郷田さんには気の毒だったけど、毒の混入が疑われたから、缶詰しか食べられなかった、可哀想。それでも郷田さんは綺麗に盛り付けることで、少しでも皆を喜ばせようと涙ぐましい努力をしていた。郷田さんってけなげだね。朝食が済んでも、源次さんは帰ってこなかった。それからしばらくすると室内に異臭が漂い始めたよ。
「何ですかこの臭いは! 熊沢、郷田、台所の火の始末は大丈夫なのですか?」
「は、はい! 先ほど確認いたしましたが、問題ありませんでした。そうですよね、熊沢さん?」
「さようでございますとも。わたくしもこの目で確認いたしました。間違いございません」
夏妃伯母さんに睨み付けられ、熊沢さんと郷田さんは縮み上がって答えた。放火されたのなら、放置していては命に関わるということで、みんなで確認しに行くことになったよ。その結果、ボイラー室でお祖父ちゃんの黒焦げになった遺体が、お祖父ちゃんの書斎の浴室で、もうもうと立ち昇る湯気の中、服を着たまま真っ赤に染まった浴槽に浸かった源次さんの遺体が見つかった。これじゃゆでだこになっちゃうね。
「どちらも金蔵さんと源次さんに間違いなく、2人ともお亡くなりになっています」
南條先生の言葉にみんな、確認するまでもない事実を知らされることになった。また、お祖父ちゃんの書斎も安全ではないことが解かったから、再び客間に戻ることとなったよ。
昼食は再び、缶詰。本当にお気の毒。お祖父ちゃんの黒焦げの遺体が目に焼きついたのか、みんな、食が進まなかったみたいだね。
「それにしても、2人の遺体の側にあった、あの杭みたいなのは何だったんだ?」
留弗夫伯父さんが言っているのは、2人の遺体の側にあった、20センチほどの黒魔術にでも使いそうな妖しげな装飾の施された杭のことだよ。現場保存の為、客間には持ち帰っていない。ちなみにあれはルシファーとレヴィアタンの杭だね。みんなには解らないだろうけど…。
「そう言えば、霧江さんは2人の遺体を見つけた時“やっぱり”って呟いてましたよね。あれってどういうことなんすか?」
誰もが押し黙る中、戦人がふと思い出したように口を開いた。
「ああ、私は次は多分、2人殺されるだろうなって思っていたのよ。そしてあの杭を見て確信したわ」
「それってどういうことよ! あんたまさか、犯人に心当たりがあるのに黙っていたんじゃないでしょうね」
この状況でもあくまで冷静な霧江伯母さんに絵羽伯母さんが食って掛かった。まあ、当然だよね。
「そうか、解ったで! 魔女の碑文やな」
「魔女の碑文って言うと、あれか? 玄関ホールにある…」
秀吉伯父さんと留弗夫伯父さんがそれに加わる。
「俺は6年ぶりだから、あまり覚えてねえぜ。なんて書いてあったんだっけ?」
「手帳に写してあるわよ。見てみる?」
戦人に絵羽伯母さんが手帳を開いて見せ、戦人はそれを読み上げたよ。何度も読み返したみたいで、この部分だけページがぼろくなっているね。
“懐かしき、故郷を貫く鮎の川。
黄金郷を目指す者よ、これを下りて鍵を探せ。
川を下れば、やがて里あり。
その里にて二人が口にし岸を探れ。
そこに黄金郷への鍵が眠る。
鍵を手にせし者は、以下に従いて黄金郷へ旅立つべし。
第一の晩に、鍵の選びし六人を生贄に捧げよ。
第二の晩に、残されし者は寄り添う二人を引き裂け。
第三の晩に、残されし者は誉れ高き我が名を讃えよ。
第四の晩に、頭を抉りて殺せ。
第五の晩に、胸を抉りて殺せ。
第六の晩に、腹を抉りて殺せ。
第七の晩に、膝を抉りて殺せ。
第八の晩に、足を抉りて殺せ。
第九の晩に、魔女は蘇り、誰も生き残れはしない。
第十の晩に、旅は終わり、黄金の郷に至るだろう。
魔女は賢者を讃え、四つの宝を授けるだろう。
一つは、黄金郷の全ての黄金。
一つは、全ての死者の魂を蘇らせ。
一つは、失った愛すらも蘇らせる。
一つは、魔女を永遠に眠りにつかせよう。
安らかに眠れ、我が最愛の魔女ベアトリーチェ。”
「恐ろしや、恐ろしや、ベアトリーチェ様の仕業であったのでございます…」
熊沢さんが引きつった顔で念仏を唱え始めた。念仏じゃあ駄目だと思うけど…。
「つまり、この碑文に見立てて殺人が行われているって訳か。確かに、第一の晩は解るぜ、碑文どおりに6人殺されてる。でも、第二の晩はどうなんだ。“寄り添う二人”ってのは恋人とか、夫婦とか、そういう関係を指すんじゃねえのかよ。確かに源次さんは右代宮家に長く仕えていて、祖父さまからの信頼も厚いだろうけど“寄り添う二人”には相応しくねえはずだぜ」
戦人がふと口にした言葉に、蔵臼伯父さんが思わずと言った感じで応じたよ。
「い、いや。それがそうでもないのだよ」
「何を言い出すつもりですか、あなた。やめてください」
夏妃伯母さんが血相を変えて蔵臼伯父さんにしがみついたけど、蔵臼伯父さんは静かに夏妃伯母さんを抱きしめた。
「この際だ。皆にも聞いてもらおう。もう2人ともこの世にはいないのだから…。君だって、これ以上抱え続けるのは辛いはずだ。頭痛のタネを増やすばかりの私だ、たまには君の為に何かさせてくれ」
「し、しかし…」
蔵臼伯父さんは、夏妃伯母さんの言葉を遮るようにして言葉を続けたよ。
「ある日、夏妃が親父殿の部屋を訪ねたときの事だ。中から親父殿と源次さんの声が聞こえてきた。いや、声だけではなかった。ハァハァという荒い息遣い、呻き声。驚いた夏妃は私のところに知らせにきたため、私もそれを聞いたよ。時間を空けて私が親父殿を訪ねたところ、源次さんと2人、やけにスッキリした顔でチェスをしていた。漏れ聞いた状況から考えれば、汗だくになっていてもおかしくはなかったのだが…」
「そっ、それはつまり、お館様と源次さんはそういう関係だったと言うことですか?」
「お黙りなさい郷田! そのようなこと、あるわけがありません、汚らわしい。2人はただ、中で腕立て伏せの競争でもしていたに違いありません」
「おいおい、夏妃義姉さん、それはいくらなんでもないんじゃないか? あの親父が使用人と腕立て伏せの競争をした挙句、風呂まで使わせるとはとても考えられねぇぜ? 俺はもっと違うことだと思うけどなぁ」
留弗夫伯父さんはいやらしい顔でニヤリと笑い、夏妃伯母さんは真っ赤になっちゃった。
「まあまあ、ええやないかそんなことはどうでも。とにかく一緒にいた2人が引き裂かれて殺された。それだけのことや。お義父さんの遺体がボイラーで丸焦げ、源次さんが浴槽で水責め。これ以上ないくらいに引き裂かれとる」
「そうね、主人の言う通りよ。お父様の名誉を貶めるような話はそれくらいにしてもらえるかしら。そんなことより今、考えるべきは碑文の話ではなくって?」
秀吉伯父さんと絵羽伯母さんが夫婦揃ってその場を宥める。このあたりの呼吸は夫婦仲の良い2人ならではだね。そうしてしばらく、皆でああでもないこうでもないと話が続いたんだけど、結論は出なかった。
「やれやれ、ヤニが切れて頭が回らなくなってきたぜ。ちょっと補給してくる」
「わしも同じくや。2人なら犯人もそう簡単には手出しできんやろ」
そういいつつ部屋を出ようとする留弗夫伯父さんと秀吉伯父さんを、それぞれ霧江伯母さんと絵羽伯母さんが引きとめたけど、2人はすぐ隣の部屋にいるからと言い残し、出て行ってしまったよ。
それから5分もしないうちに隣の部屋から2人の叫び声が聞こえた。みんなで駆けつけたけど、チェーンロックが掛けられていたから、すぐに入るというわけには行かなかったみたい。もう一度、番線カッターを使って入った部屋の中には、胸を真っ赤に染めた留弗夫伯父さんと秀吉伯父さんが倒れていたよ。2人の傍らにはやはり2本の杭が残されていた。これはサタンとベルフェゴールの杭だね。
「2人とも既に亡くなっています。胸の傷が致命傷です」
検死を終えた南條先生が、真っ赤に染まった手をタオルで拭いながら首を振った。霧江伯母さんと絵羽伯母さんは、蔵臼伯父さんと秀吉伯父さん、それぞれの遺体に駆け寄り泣き崩れた。戦人は検死は南條先生、死を悼むのは霧江伯母さんと絵羽伯母さんに任せて室内を調べてみたよ。ベッドの下や、クローゼットの中、浴室、いずれにも犯人の姿はなく、抜け穴や隠し部屋も見つられなかった。窓は内部から施錠されていて、ミステリーでありがちなテグスとかを用いたトリックの痕跡も発見できなかった。現場保存の為、部屋に鍵をかけて、再びみんなで客間に戻ってきた。隣の部屋にいて、すぐに駆けつけたのに、煙のように姿を消してしまった犯人。しかも大の大人を瞬く間に2人も殺してのけた、とっても恐いね。皆で相談し、お祖父ちゃんのコレクションである鉄砲を持って客間に立てこもることになった。客間にはチェーンロックが無いから、槍みたいに長い蝋燭立てを取っ手に咬ませて、その代わりにしたよ。夕食後、蔵臼伯父さん、夏妃伯母さん、絵羽伯母さん、郷田さん、この4人が4丁の鉄砲を持って不寝番をすることになった。蔵臼伯父さんは郷田さんと2人ですると言い張ったけど、夏妃伯母さんと絵羽伯母さんは聞き入れなかった。こんな時でもお互いに張り合うことをやめられないんだね。
「戦人君、寝る前にオシッコは済ませた? その歳でおねしょなんて恥ずかしいわよ」
「勘弁してくれよ霧江さん。けど、寝る前に花を摘んでおきたいには確かだぜ」
留弗夫伯父さんが死んじゃって、憔悴した様子の霧江伯母さんではあったけど、少しは落ち着いてきたみたい。
「では、私と夏妃が護衛を務めよう。こう見えてもトレーニングは怠っていないつもりだ」
蔵臼伯父さんは、そう言って力こぶを作る仕草をした。スーツを着ているから良く解らないんだけどね。でも、私が2〜3人ぶら下がっても大丈夫かもって思えるくらい、蔵臼伯父さんの腕は太いんだよ。
「あの、旦那様。何か合言葉のようなものを決めておいては如何でしょうか…。旦那様達だと思って扉を開けたとたん、犯人が踏み込んでくるなんてことになったら…」
郷田さんは震える手を誤魔化すように揉み手をしていた。
「では、こうしましょう。私達が戻ってきたら、扉を3度叩くことを、3回くり返します。その時は私達ですから扉を開けてください。もし違う場合は…」
「遠慮なく扉越しに発砲させてもらうわよぅ。文句はないわよねぇ、夏妃義姉さん」
「はい、それで結構です」
絵羽伯母さんの調子もだいぶ戻ってきているようだった。
「では、郷田、絵羽、皆の護衛を頼んだぞ」
そうして戦人と蔵臼伯父さんと夏妃伯母さんは部屋から出て行ったよ。
「やれやれ、膀胱が縮みあがっちまって、なかなか出なかったぜ」
戦人達は客間の前に来ると、先ほど決めた合図通り、扉を3度叩くことを3回くり返した。でも、いくら待っても扉が開かれることはなかった。
「あなた!」
「うむ!」
蔵臼伯父さんは大声で叫びながら何度も激しく扉を叩いたんだけど、反応はなかったから、戦人と2人で扉に体当たりをし、蝋燭立てをへし折って室内に踏み込んだよ。すると郷田さん、熊沢さん、南條先生の姿がいなくなっていて、その代わりに3つの血溜まりと3本の杭が残されていた。これはマモンとベルゼブブとアスモデウスの杭だね。これで煉獄の七杭が全て登場したよ。絵羽伯母さんと霧江伯母さんは部屋の中にいたんだけれど、すっかり眠ってしまっていて、体を激しく揺さぶって、頬を叩いて、ようやく目を覚ました。2人が言うには、どこからか黄金の蝶が部屋に舞い込み、その蝶を目で追っているうちに眠ってしまったんだって。そして、いつの間にかテーブルに右代宮家の片翼の鷲が刻まれた手紙が置かれていた、もはや定番だね。
“皆様のご協力により、13人もの生贄を賜ることが出来、感謝感激雨霰です。13人の遺体は儀式に用いたため、もうこの世にはなく、魔界にて有効活用させていただいております。ただし、特別条項は現在も有効です。皆様の内の誰か一人でも特別条項を満たせたなら、すでに回収した分も含めて全てお返しいたします。ただし、時間がもうあまり残されていないことはご承知くださいませ。
――黄金のベアトリーチェ”
この手紙を読んで、蔵臼伯父さん、夏妃伯母さん、絵羽伯母さん、霧江伯母さん、戦人。以上、残された5人は遺体を確認するために貴賓室、ボイラー室、お祖父ちゃんの書斎、客間の隣の客室に行ったよ。でも、鍵が掛かっていたのに、遺体は一つもなかった。どこに行っちゃったんだろ?
「どうなってんだ! 一体、犯人が何人いりゃ、こんな13人もの死体をどうにか出来るんだ?」
「落ち着きたまえ、戦人君。どこかに移動させられたのかもしれん。手分けして島内を探してみよう」
「蔵臼義兄さん、今の状況ではまとまって行動した方が良いのでは?」
「何言ってんのよ、あんた! 13人もの死体を消すことが出来て、密室に自由に出入りできて、その上、魔法まで使うことが出来る。そんな犯人相手にまとまってたって何の役にも立たないわ。私は一人でも探しに行くわよ!」
絵羽伯母さんは夏妃伯母さんから奪うようにマスターキーとお祖父ちゃんの書斎の鍵を受け取ると、屋敷の階段を駆け登っていった、勇敢だね。
「では、こうしましょう。私と主人は屋敷の外を探します。戦人君と霧江さんは絵羽さんと一緒に屋敷の中を探して下さい。念のため、探し終えても屋敷からは一歩も出ないこと。解りましたね」
「解ったわ、夏妃義姉さん。戦人君、早く絵羽義姉さんを追いかけましょう。あの人が持つ銃はそれでも抑止力にはなるはずよ。離れたら危険だわ」
絵羽伯母さんと、霧江伯母さんと戦人は屋敷内を、蔵臼伯父さんと夏妃伯母さんは屋敷の外を、それぞれ探したけれど、捜している遺体は見つけられなかった。その後、5人は一生懸命碑文の謎を解こうと頑張ったけれど、結局解けないままに1986年の10月5日、24時を迎えてしまったよ。そうしてベアトリーチェは蘇り、全ては黄金郷に包まれた。これで私のお話はおしまい。
これをあなたが読んだのなら、その時、私は死んでいるでしょう。死体があるか、ないかの違いはあるでしょうが。これを読んだあなた。どうか真相を暴いてください。それだけが私の望みです。
右代宮真里亞